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自転車と共に


KURUME MASTERS TALK第4回は、久留米の三しゃ(芸者・医者・人力車=現在は自転車)の一つ、自転車対談です。高校時代インターハイケイリンなどで優勝。プロの世界でも、最高ランクのS級S班にも在籍したことがあり、30歳を過ぎて更なる活躍を期待される、日本競輪選手会 福岡支部「競輪選手」坂本亮馬さんと、ソウルオリンピックの自転車競技に、日本人初メカニックとして日本代表に帯同した、現在「自転車工房 メカニコ・ジロ」代表 並びに「NPO法人 育てよう未来のオリンピックメダリスト」理事長の岩井正二郎さん。自転車のある環境で育ったお二人から、競輪・自転車の世界、これからの展望などのお話しをお聞かせくださいました。

 

兄からの紹介

 

岩井正二郎氏、岩:出会いは、お客さんよね。

坂本亮馬氏、坂:そうですね。

岩:先にうちのお客さんだった、お兄さん健太郎さん*¹からの紹介でした。

坂:はい。A級までは違うメーカーのフレームを使用していて、21歳の時にS級に上がったのを機に、変えてみようかという話になりました。ジロさんのフレームを選んだのは地元久留米のメーカーですし、強い選手が使っていたのも知っていましたので、魅力だったこともあり、お願いしたのがきっかけです。

岩:地元の選手ですし、プロに入る前から亮馬くんの事は知っていました。高校の時タイトルとっていたよね?

坂:はい、そこそこ(笑)

岩:確かインターハイと選抜で、日本一になった目立つ選手でしたから、うちのフレーム使ってくれたのは、願ったりかなったりでした。

坂:ありがとうございます(笑)ジロさんのフレームに変えてから成績もスピードも上がりましたし、もう10年ですよ。

岩:もう10年?そんなになるのか。

坂:僕が選手になって12年目ですから。

*¹:坂本健太郎さん。亮馬選手の兄で、競輪選手

 

自転車との出合い

 

坂:運動神経は自分で言うのもなんですが、良い方でした(笑)中学の時はバスケと陸上やっていて、自転車は祐誠高校からです。兄が競輪選手という事もあり、自転車競技部の監督が、僕の事をご存知で「自転車競技部入るなら推薦でとるよ」と言ってくださいました。プロスポーツでしたし、僕の実家が飲食店やっていて、お客さんに競輪選手もいたので、ごくごく自然な感じで自転車の世界に進んだ感じですね。

岩:当時から練習嫌いだったの?

坂:はい(笑)大きな声では言えませんが、ロード*²の練習には、ほとんど行っていませんでした。ただ僕らの時代は、高校で自転車競技部に入ったという事は、その時点でプロを目指す傾向がありましたので、ケイリン*³には力を入れていました。

岩:自転車競技部のある高校は少ないよね。

坂:競輪場がある地域に、基本ある感じです。高校生の競技人口としては、インターハイ、国体、選抜の大会もあるので少なくはないですが、野球やサッカーなどに比べると多くはありません。各県に数えるくらいですね。

岩:福岡県は今、祐誠高校だけかな?

坂:はい。久留米だけです。あとは学校によって愛好会があるくらいですね。

*²:ロードレース。主に舗装された道路を自転車で走り、ゴールの順番や所要時間を争う競技である。

*³:ケイリン。日本でおこなわれている公営競技競輪をベースに生まれた競技。

 

メカニックの道

 

岩:丁度、祐誠高校に自転車競技部が出来た頃、私は福岡市の大濠高校に通っていて、ロード中心ですけど自転車同好会で活動していました。その後、日大自転車部に入り、父が元競輪選手という事もありましたし、プロの道もあったのですが、どうせ大成しないだろうという判断から・・・。

坂:(笑)

岩:だからメカニックの道に。そもそも実家が、イワイスポーツサイクルというサイクルショップなんです。まもなく創業100年ですよ。

坂:100年?!

岩:そう。兄が既に引き継いでいたので、同じ商売やるなら別分野だと考え、小売ではなく、製造に進みました。その当時、競輪界で名を馳せていた選手が中野浩一さんでした。世界選手権10連覇も達成され、その中野選手の自転車を作られていたのが、私が弟子入りしたナガサワレーシングサイクルです。代表の長澤義明さんが、日大自転車部の先輩でもありましたので、大阪にある工房の門をたたきました。

坂:そうだったんですね。

岩:ただ、3回くらい断られました。基本的にお弟子さんをとらない方でしたから。久留米に帰省する度に、粘り強く大阪にお願いに通いましたね。

長澤さんは世界選手権のメカニックで、全部を仕切る程の工房でしたので、様々なことを学ばせてもらいました。中野選手の世界選手権V8、9では同行させていただき、V9の時の開催地だったイタリアに大会後居残ったんです。※写真は中野浩一さんに同行する岩井氏

坂:長澤さんの所は、どうされたのですか?

岩:長澤さんの下では、元々4,5年という約束で働いていたので、V9の中野選手に同行した時はフリーでした。メカニックを志した時から、ロードが盛んな地域でも修行したいと思っていましたので、結果的に長澤さんでの所でピスト*⁴を、修行の仕上げとしてイタリアでロードを学びました。自転車競技としては、ヨーロッパが最先端だったからですね。

坂:どちらで修行されたのですか?

岩:ジャンニ・モッタという、ジロ・デ・イタリア*⁵の優勝者が経営している自転車工房です。イタリアではロードレースが、サッカーに匹敵するくらいの国民的スポーツでしたので、ロードレースに同行する際は、VIP待遇でしたし、修行した場所としては最高でしたよ。

坂:凄いですね。

岩:ただ溶接に関しては、日本では見て覚えているだけで、やらせてもらえなかったので、イタリアで学んだ形です。メカニックは、私は世界選手権も経験していたので、逆にイタリアでは教える立場で、それなりに評価もしてもらえました。結果向こうで3年間修行した後、帰国してメカニコ・ジロを1988年ソウルオリンピックの年に立ち上げました。

*⁴:ピストバイク。主に競輪で使用されるノーブレーキ、固定シングルギアの競技場用の自転車。

*⁵:毎年5月にイタリア全土を舞台にして行われる自転車プロロードレース。

 

S級S班

 

坂:デビューして、S級までは早く上がれたと思います。

岩:今、競輪選手が2400人くらいですが、当時は3700人位いたので、S級まですんなりいけた方ですよね。

坂:通常は半年ごとの昇級なのですが、特進という、A級で9連勝すると飛び級できる制度でS級に上がったので。

岩:S級でも、亮馬くんが以前入っていたSS*⁶は、当時年間ランキング上位18名まで枠がありました。現在は上位9名までなので、入るためにはタイトル*⁷をとるのが最も近道です。

坂:僕は賞金ランキングで入りました。

岩:賞金ランクが高いということは、それまでレースを勝ってきているということだけど、やっぱりSSの枠が9人と少ない今、タイトルとりたいよね。

坂:そうなんです。とらないといけませんね。

岩:当時のSSの時、待遇はどうだった?

坂:全てレースでシード権と、移動でのグリーン車料金が出るとか。あとは競輪場の中の対応が、ちょっと良かったです。お風呂の時間が終わっても入れました(笑)

*⁶:S級S班。現在最高ランクとされるS級(S班>1班>2班)の中でも、最高の実力を認められた選手のみに与えられた、最高峰のランクです。

*⁷:G1レース(読売新聞社杯全日本選抜競輪、日本選手権競輪、高松宮記念杯競輪、オールスター競輪、寛仁親王牌・世界選手権記念トーナメント、朝日新聞社杯競輪祭)と呼ばれる大会で優勝すること。

 

プロの素顔

 

坂:競輪選手として大変なことは、体調管理が一番ですね。トレーニングしても、ケガや体調崩してしてしまうと台無しですから。食事にも気を使っています。

岩:競輪選手になって良かったことは?

坂:率直に、たくさん賞金をいただけることです。自分の年齢と同じ、一般的な会社員に比べると、もらえる額ではないと思いますし。

岩:良い車乗っているよね。

坂:ポルシェはSSになった記念に買いました。

岩:いまGP*⁸の優勝賞金は1億円?

坂:はい。1000万円の時もあったそうですが、今は凄い額です。

岩:女性ファンは?独身だけど。

坂:ファンは20代の頃の方が多かったですよ。トークショーなども良くやっていましたし、SSだったということもありましたけど。

岩:ルックスがジャニーズ系だから(笑)

坂:当時のSSで、独身が僕だけでしたから、広報が使い易かっただけです(笑)

でもまたSSになれたら露出も増えますし、タレントやアナウンサーの方とも共演する機会もあるので、出会いもあるかもしれないですね(笑)

*⁸:KEIRINグランプリ。毎年12月30日に行われ、その年の4日制以上のGⅠ優勝者と賞金獲得額上位者の計9名が出場できる。1レースのみの一発勝負の大会。

 

ソウルオリンピック

 

岩:イタリアの工房で修行中にも、ヨーロッパで開催された世界大会などに、日本代表のメカニックとして呼ばれていました。そういった実績もあったことと、当時の監督が恩師だったこともあり、ソウルオリンピックに呼んでもらえました。当時日本ではメカニックという専門職で帯同していなかったので、日本人第1号となりました。知っていた?

※写真はソウルオリンピック自転車競技に出場した橋本聖子さんと岩井氏

坂:もちろんです。

岩:あまりに昔の話だから、知らないかと思ってた(笑)

坂:それ位は知っていましたよ(笑)

岩:ソウルオリンピックの時は、生まれてないでしょ?

坂:1988年ですと、3歳ですね。

岩:じゃあ、福岡県の自転車競技連盟で役員やっていたことは?

坂:えっ!?知りませんでした。

岩:国体の監督も、7年くらいやっていたんだよ。

坂:本当ですか!?福岡国体の時からですか?

岩:そうなんです。年の差を感じますね(笑)

 

期待高まる30歳代

 

坂:目標は、タイトルとること以外ないです。

岩:タイトルとると全然違ってくるからね。でも競輪選手は、30歳代が一番伸びる時期なんです。これまでの若さのパワーに、テクニックが入ってきますので。これからですよ。これまでは亮馬くんは、一気に行き過ぎたかな。

坂:(苦笑)

岩:ちょっと早すぎた感があり、最近は充電期間なのかなと思います。

坂:はい。頑張ります(笑)

岩:テクニックは勉強している?

坂:レースを観て研究しています。あと師匠が、日本一競り*⁹が上手い選手なので、参考にしていますね。

岩:戦法としてライン*⁹でいく所でも、亮馬くんの場合は読めない部分が多いです。何をするか分からないのが、お客としても魅力的ですね。賛否があるかもしれませんが、私は良い面だと思っています。

坂:ありがとうございます。色んな面で他の選手との違いを魅せれたらと思っています。

レーススタイルにしろ、体形にしろ。

岩:周りは体格が大きいからね。

坂:G1に出場する中では、断トツに細いです。

岩:競輪選手の体形ではないよね。その分、俊敏性がズバ抜けているので戦えているんです。

*⁹:自転車に乗って競走する選手が身体と身体で押し合ったり、ぶつかり合ったりする行為

*¹⁰:競輪の戦法の1つ。2人〜4人(基本は3人)の選手が一列に並んで連携して戦う戦法

 

自転車での街づくり

 

岩:久留米市草野町で開催された、第1回つばきカップ*¹¹が大成功したので、2回目以降も発展させたいですね。常識的にあり得ない坂のコースでしたし、そこを敢えてウリに出来たことで、競技としては成り立たない部分もあったかもしれませんが、人を呼び込む自転車のイベントとしては意義がある大会でした。

坂:どこの辺りですか?

岩:草野町の発心公園の裏。この前、チラシ渡したやろ(笑)傾斜22%の坂の。

坂:22%!?マジですか。上りで3.7キロ。キツそうですね・・・

岩:久留米は自転車のまちと言われていますので、もっと自転車で活性化できたらいいですね。

坂:瀬戸内のしまなみ海道*¹²とか、いいですよね。

岩:あそこは人気だよね。私は久留米の市街地で、クリテリウム*¹³をやれたらという思いもあります。最近だと大分市がやっていたかな。

坂:やっているんですね?!

岩:つばきカップも始めは、大変でしたが、理解してもらうかどうかの問題ですね。

亮馬くんも何かのときは、是非ご協力お願いします。

坂:坂本亮馬カップでも(笑)自転車で盛り上がるのなら、なんでも協力しますよ!

岩:あとはNPOの活動ですね。現在の自転車ブームも有り難いです。底辺を広げる為、乗り方教室もやっていますが、自転車だけではなく、全部のスポーツに関わる活動です。つばきカップが成功した様に、競技だと様々なハードルがありますが、視野を広げてスポーツとして開催して行けば、参加者も、競技人口も、周囲の理解も得られていくと思っています。

*¹¹:久留米つばきカップTT in 草野。タイムトライアルで最大傾斜22%の坂を駆け上がるヒルクライムレース。

*¹²:瀬戸内しまなみ海道にあるサイクリングロード。日本で初めて海峡を横断できる自転車道。

*¹³:他の交通を遮断して、街中に作られた短いコースを何度も周回する自転車ロードレース

 

久留米とは

 

坂:久留米は故郷なので、落ち着くまちです。今は久留米には住んでいませんが、月1回は帰ってきています。地元の友達と会ったり、地元の選手と練習したりしていますね。

自転車のある環境で生まれ育ったからこそ、競輪選手の自分がいると思います。

岩:高校卒業してから久留米を出て、最終的には戻ってきました。誰でも生まれ育ったまちは、過ごしやすさがあるかとは思われますが、特に久留米は何でもあります。コンパクトな街ですし、病院も多いし、自然も豊かですし安心できますね。

 

PROFILE​

 

坂本 亮馬 さかもと りょうま

競輪選手

1985年久留米市生まれ。日本競輪選手会福岡支部に所属。祐誠高校の自転車競技部に在籍時には、インターハイなどの全国大会で優勝。90期として競輪学校卒業後、2005年に競輪デビュー。2011年には、最高の実力を認められた選手のみに与えられた、S級S班に加わる。

現在30代になり、更なる活躍が期待されている。

 

岩井 正二郎 いわい しょうじろう

自転車工房メカニコ・ジロ 代表

NPO法人育てよう未来のオリンピックメダリスト 理事長

1958年久留米市生まれ。日本大学自転車部に在籍した縁で、当時中野浩一選手の世界大会10連覇を支えた、ナガサワレーシングサイクルに入社。数々の国際大会で日本代表のメカニックを務める。その後イタリアのジャンニ・モッタで修行。1988年に帰国し「自転車工房メカニコ・ジロ」を立ち上げる。同年開催された、ソウルオリンピックの自転車競技では、日本人初メカニックとして日本代表に帯同する。現在「NPO法人育てよう未来のオリンピックメダリスト」の理事長としても活動している。

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