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伝承が生んだ飛躍


KURUME MASTERS TALK第3回は、久留米を代表する老舗飲食店対談です。2014年、日本国内のとんこつラーメン専門店で初めてミシュランガイドに掲載(4店舗掲載、うち2店舗はビブグルマンを受賞!)され、今もなお久留米のラーメン文化をけん引する、「大砲ラーメン」代表取締役香月均史さんと、創業昭和63年、現在福岡と佐賀に計7店舗を構える、ハンバーグ専門店「ハンバーグオニオン」代表取締役笠勝さん。

おふたりに大きな影響を与えた方の話や、とんこつラーメン、久留米の食文化のルーツなど、貴重なお話しをお聞かせ下さいました。

 

親父のファン

 

香月社長、香:もともと笠社長が、親父のファンやったですね。

笠社長、笠:そうです。今もありますが42年前、私は「コックどーる」という兄がやっていた洋食店で修行していました。高校卒業前から学校帰りに、皿洗いの手伝いをしていて、そのまま見習い修行して、お店に就職した感じでした。その店に卸していた精肉店から、大砲ラーメンが美味しいという情報を聞いたのがきっかけで、お店に通うようになりました。

香:私はまだ中学生の頃ですね。

笠:私の仕事が落ち着く夕方前に、ほぼ毎日通っていましたよ。お店に行くと、昇さん*¹はいつも寡黙な感じでしたが、ボソッと「今日はスープが良くなか」、ある時は「今日は美味しかばい」と、つぶやいてくれました。

香:それは逸話ですね。実は、虫の居所が良いか悪いかだけです(笑)

笠:そうだったの?!

香:そうなんです。ファンの間では、父の逸話が沢山ありました。例えば、スープの味が美味しくない日は、店を閉めていたという話もありましたが、単に麺の発注ミス。ファンが妄想で、良い風に解釈してストーリーを作ってくれていたんです。

笠:でもファンの私から見ても、昇さんがそうさせるカリスマ的な面影がありましたよ。店の隅で麵を研究し始められたり・・・

香:その麺の逸話もあるけど話しません(笑)でも父はキャラが強烈でしたからね。笠社長とはその頃に面識がありました。家族でコックどーるに食べに行っていましたので。

笠:そう。香月社長との出会いはコックどーるかもですね。

*¹:香月昇氏。香月社長の父で、大砲ラーメンの創業者。

 

鶴の一声

 

香:深く付き合うようになったのは、笠社長が独立されてからです。ご夫婦2人で医大向け進学予備校の寮の、賄い兼レストランが最初のお店でしたね。

笠:いまでも跡地があります。独立した昭和63年、当時は洋食屋オニオンという店名で、寮の賄い兼でもあった為、お昼勝負の店でした。ただ私にとっては、周囲からの協力のもと独立して、自分の店が持てたので感謝の気持ちでいっぱいでした。

香:オニオンで、父と一緒に夜ハンバーグ食べながら、焼酎を飲んだこともありました。

笠:本当によく指導してもらいました。

香:そっかー、笠社長の独立が昭和63年。私が久留米に戻ってきて、大砲を継いだ年が平成元年だから・・・。

笠:お互いスタートが同じくらいだったんですよね。

香:あの頃は笠社長の方が稼いでいたので、スナックやら、なんやらご馳走になってお世話になりました(笑)

笠:まだそれは何年か後ですよ(笑)独立した頃は毎日仕事で、盆と正月しか休めなかったです。オープン当初に、冷やかしも兼ねて昇さんにも来ていただきました。

そこで昇さんから「おまえは何ば作りたかとか?ハンバーグが美味しかったろうが。ハンバーグ1本で勝負せんか」と一喝されたんです。その鶴の一声が、自分に響きましたね。

 

経営の神様から

 

笠:香月社長には夜、度々来店いただき売り上げ協力してもらいました。とにかく3年くらいは暇でしたから。昼は忙しかったけど。

香:夜は貸し切りでしたね(笑)

笠:そうそう!ゼロはなかったけど(笑)その後の2軒目を出す際、香月社長に相談乗ってもらって。

香:どちらでした?

笠:津福店です。ここが本当の独立でした。この店から昇さんの言葉の通り、ハンバーグ専門にして、店名もハンバーグオニオンに変更しました。

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香:オニオンのロゴマークは同じでしたね。

笠:そのあと上津店、鳥栖店、合川店と出店できました。大砲ラーメンさんの横に出店させて戴き、大型店出店となった上津店の時は、いい商品も出来上がり、売り上げも伸び、スタッフも集まりました。その上津店出店の際にも、香月社長から経営者としてのアドバイスを沢山いただきました。私も経営の神様みたいな方を数人知っていますが、その優れた方の1人でしたので、本当に香月社長には感謝しています。話にオチがなかったですかね(笑)

香:オチはいらんでしょ(笑)

 

スタッフに恵まれるために

 

笠:当たり前の話ですが、店舗が増えお店が忙しくなると、どうしてもスタッフが必要になります。私の人使いが上手くなかったので、香月社長に相談に乗ってもらい、色んな部分で「本当にスタッフは大切だな」と思えるようになりました。

香:んー、最初は人が集まらんかったですからね

笠:そうでしたね。

香:スタッフ募集しても集まる店には集まるけど、当時の私らみたいに個人経営のところには、全然集まらなかった。やはり社会保障がなかったからです。平成元年に帰ってきて、2年目に初めにおこなった事が家業の法人化です。私の家族以外の唯一、一人のスタッフの為でした。

笠:常務の井ノ口さん?!

香:そうです。彼の為に法人化して、社会保険に入りました。更に彼のキャリアプランも考慮して、平成3年に合川店をオープンしました。その頃はバブル崩壊直前で従業員確保は売り手市場だったのですが、合川店のオープニングスタッフには奇跡的にも良いスタッフが集まったのです。現在の幹部にも、その時に採用されたスタッフもいます。そのように、人に恵まれ、その後3年から4年のペースで、1軒ずつ丁寧にオープンすることができました。

 

久留米のラーメン文化

 

香:父は商売、特にラーメンに関しては一本気な所がありました。ちゃんとした教育も受けていた訳でもないですが、何をやらしても勘が良かったです。絵を書いても上手かったですし、料理修行の経験もないのにセンスが良かった。スープの味に関してもです。

笠:カリスマ性がありましたからね。

香:父の姉がラーメン屋台に嫁いだ影響で、ラーメン屋台を始めたそうです。酒乱の父の下で、幼少の頃は苦労もしましたけど、そんな父を尊敬もしていましたし、目標でもありました。

笠:昔はラーメン屋台たくさんありましたね。

香:はい。ラーメンの発祥は屋台です。その前身は闇市。闇市が進化して屋台に。闇市は非合法で、屋台は合法なんです。屋台で始まったラーメンは、私が継いだ平成元年くらいに店舗形態になっていき、他の店主も二代目に変わる世代交代の頃でした。

笠:そうやったですね。子どもの頃、ラーメンは屋台でしか食べられんかったですね。

香:昭和40年くらいまでは屋台のみで、店舗でもラーメンも出す食堂があるだけで、ラーメン専門店はありませんでした。当時、屋台をたたんで店舗を持った仲間が、ひろせ食堂、来福軒、焼きとり店の赤垣屋などで、現在二代目が経営しています。南京千両に至っては、三代目がしっかり暖簾を守っています。

 

フードイベントの元祖

 

香:南京千両は戦前の昭和12年創業で、大砲ラーメンは戦後の昭和28年創業。最も古いとんこつラーメン屋は南京千両です。更に、今でも当時のままの屋台が現存している、唯一のラーメン発祥の店です。味噌ラーメン発祥の北海道の「たけや食堂」も、醤油ラーメン発祥の東京の「来々軒」も、その姿はありません。

笠:そうですね。

香:こんな歴史的財産が久留米にはあるのです。それは町おこしのネタとして最高のテーマです。そこで私たちが企画したのが、1999年に開催した「第一回ラーメンフェスタin久留米」でした。

ラーメン界の重鎮の「支那そばや」の故・佐野実氏、「一風堂」の河原成美氏、その他全国の有名ご当地ラーメン店の皆様方にも、出店のご協力を戴きました。とってつけたテーマのイベントではなく、歴史的事実である「とんこつラーメン発祥は久留米だった」という、解りやすい史実をテーマにしたイベントは、お陰様で大成功でした。そのイベントも5回目の2004年には、福岡県で開催された国民文化祭の目玉事業になりました。

笠:B-1グランプリもこの流れですよね。

香:そうです。ラーメンフェスタの延長線上にB-1グランプリがあって、両方のイベント立ち上げに携わったのが、「食の方言」の著者の日本経済新聞社の野瀬泰申さんです。今でも全国で開催されている、大規模フードイベントの元祖は、久留米のラーメンフェスタなのです。

 

昔ラーメンの誕生の秘密

 

香:現在、大砲ラーメンの二本柱。こってり系の「昔ラーメン」、定番のまろやか系の「ラーメン」ですが、昔ラーメンがこってりなのは、あくまでも演出です。

元来、久留米のとんこつラーメンは、あっさりとした軽めのスープなので、昔ながらの久留米ラーメンの再現ということではありません。新商品としての「昔ラーメン」を開発した理由は、まず、父を顕彰した店のオープン計画があり(旧・昇和亭)、その店のコンセプトに合わせた商品の開発の必要性がありました。そこで、新商品は「父の創業時のラーメンの一部を再現しながらも、現代の濃い味嗜好のスープに仕上げた商品」という基本設計にしました。

その新商品でこだわった具材が2つあります。その1つが、「昔ラード」こと、父の時代の手作りラードです。当時、父が出していたラーメンには、久留米ラーメンには、わずかに焦げた香りのする手作りラードを乗せて出していました。そのラードの調理過程で出来る副産物が「カリカリ」と呼ぶ、揚げた豚脂でした。

しかし、当時はそれを嫌がり残されるお客様が多かったのです。やがて父は手作りラードを止め、市販のラードを使うようになりました。しかしそれは味も風味も全然違うものでした。

やはり手作りのラードの方がいい。コクがあって風味もあり、ほのかに香ばしくて。それを再現するために敢えて、「昔ラーメン」という商品名にしてはどうかと考えました。そして「スープが薄くなった」というイメージを与えたくなかったので、わざとこってりとしたスープにしました。

笠:そうそう、上津店(旧・昇和亭)のオープンの時に試食させてもらいました。新商品のカリカリ入りの昔ラーメンを。

香:上津店はもともと、父の名前香月昇と昭和からとった、大砲ラーメン「昇和亭」という店でした。父を顕彰した店は、古き良き昭和の時代もイメージしたかったので、建物、インテリアにもこだわりましたが、平成9年のオープン直前に父は亡くなってしまった。当初、昇和亭でしか昔ラーメンは提供されていませんでした。

それと大砲ラーメン「昇和亭」を大砲ラーメン上津店にしたのは、お客さんを困惑させてしまった事がきっかけです。本店は近くにあるのに、フランチャイズじゃないか?!など疑問を抱かせ、ご意見もいただいたこともあり、上津店に変更しました。セカンドブランド店というのは、本当に違うコンセプトで店を出す時ではないといけないと痛感しましたし、売り上げも上津店としただけで跳ね上がりました。

笠:思い出した。昇さんの名前をとったことは知っていましたが、昔ラーメンの開発話までは知らんかったですね。

 

授かった副産物

 

香:合川店が木造校舎風なのは、実はこれも理由があって、昔ラーメンの話に遡るのですが、昔ラーメンを完成させるのに必要だった、もう1つの具材が「シナチク」でした。干しタケノコを水で戻し、油で炒めたものです。いまはメンマがあるけど、昔はシナチク。メンマに似て異なるもので、大陸から中華そばを再現する時、戦後の日本ではメンマが当時手に入らなかった。

只、久留米の近くにはタケノコの名産地八女があった。八女では一年中使える干しタケノコを作っていました。それを購入して水で戻し、食紅で色を付けて炒めていた。時代の流れで、干しタケノコの生産効率が悪かった為、農家で作らなくなり、手に入らなくなりました。

そこで久留米の屋台の店主たちが話合い、代わりに紅ショウガを使うようになりました。ラーメンの上に紅ショウガ乗せたのも、久留米が初めてと言われています。その紅ショウガの前身は、食紅で染めた八女の干しタケノコだったのです。昔ラーメンを開発する上で、その八女の干しタケノコがどうしても必要でした。

そして、八女とその周辺を探し回るうちに、たどり着いたのが矢部村のタケノコ農家でした。そのタケノコ農家さんと、干しタケノコの取引の年間契約を結びにいった際、知り合った矢部村の村長が、偶然紹介して下さったのが飯干小学校でした。その小学校は全生徒が14人しかいない学校で、翌年廃校になるとの事でした。

長い歴史のある木造校舎でしたし、残さないのか確認したところ、村に維持する予算がないとのことでした。私は譲ってもらえないか直談判しました。そしたら、親切にも村長さんが村議会にかけてくださり、奇跡的にも承認を得ることができました。その校舎の廃材を使い、リニューアルしたのが、合川店です。

昔ラーメンのシナチクを探し求めた先に、授かった副産物が昔の面影を残す木造校舎でした。合川店をリニューアルするきっかけで、木造校舎に合うように、同じ敷地内に出店したオニオンさんにも店舗コンセプトを合わせていただきました。イメージは嘉例川駅(肥薩線)の木造駅舎です。

笠:そのイメージに沿って甘木鉄道のレール、枕木、信号、カンテラ、色んなものを分けていただきました、香月社長から紹介いただいたデザイナーと内装にもこだわり、昭和のレトロな駅舎をイメージしたハンバーグ店に。忘れかけていました(笑)ありがとうございます。

香:あの界隈を、元気な昭和の街の雰囲気にしたいと思いました。

 

ミシュランからの評価

 

香:これまで日本のラーメン店の海外出店に関しては、当社は、距離を置いてその流れを見てきました。

海外出店の場合、ほとんどのラーメン店ではセントラルキッチン*²を導入せざるを得ないですし、東南アジアでは日本のラーメン店が飽和状態のようです。ブームの最中は混沌としていて、何が良いか悪いかわからなくなってしまいますから。そのうち時がたち淘汰されたものお店だけが残ります。

当社としては、じっくり時期を見極めて、「その時」が到来すれば、海外出店を考えています。そして、それは欧米1国1店舗のみ。当社は職人を育てていますし、ある程度経験を積んだスタッフには、ノウハウを全て教えています。「大砲ラーメン」のブランドを掲げる以上、セントラキッチンは許されませんし、スープメーカーの業務用スープなど問題外です。必ず手作りです。これは僕の遺言にも書いています。

その大砲の精神を知った上で、ミシュランガイド*³は評価してくれたのだと思います。

笠:すごいですよね

香:ビブグルマン*⁴を戴いて勿論嬉しさもありましたが、なにより自分の経営方針に間違いはなかったのだと自信がつきました。

*²:一カ所(工場)で調理加工を行う運営方式のこと。

*³:フランスのミシュラン社により出版される、レストランや宿泊施設の評価を星の数で表すことで世界的に知られるガイドブック

*⁴:5,000円以下で食事ができる、おすすめレストラン

 

ドミグラスを貫きたい

 

笠:商品に関して、香月社長が話されたように、クォリティにはこだわりたいですね。私が元気なうちは、素材の黒毛和牛と国産豚の合びきミンチ、そしてドミグラスソースだけは貫きたい。まだ自分が修業時代から今まで、これだという満足したドミグラスは出来上がっていません。やはり職人でないと作れない、簡単には作れないドミグラスソースに一生挑戦していきたいです。

それをやっと今、当社ではソース作りに専念する、商品開発担当者をたてることができました。近い内に、昨年久留米に戻ってきた二代目を商品開発に入らせたいと思っています。オニオンでは、各店の店長が90点以上を目標にドミグラスを作ってもらっています。美味しいものを作ろうという気持ちから、美味しいものが生まれますから。

そして、東京オリンピックまでには東京出店したいですね。いつか江戸に出すぜと友人には言っていますけど。江戸ならどこでも!

香:(笑)

 

我々にとって久留米とは

 

香:私の全ての原点です。今後私がこの町でやるべきことは「後進の育成」ですね。今、若い者がどんどん育っています。彼らには私たちが積み上げてきた「会社経営のコツや、町おこしのノウハウ」を残らず伝えたいと思っています。

そして、老兵は去るのみ。いつまでもしがみついて幅をきかせる老将軍がいる街は発展しない。逆に潔く若手に任せる年寄りがいる街は甦る。久留米は後者のまちであると信じます。

笠:離れたくない故郷です。教養もなく、人付き合いも苦手だったのに、周囲の暖かい応援を得ながら、オニオンは30年近くやって来られました。本当に久留米のまちが大好きです。

また、久留米のシンボルでもある大河・筑後川では物心ついたころから遊んでいましたし、20歳からは10年間、その河川敷を毎日5キロ走っていました。この思い出も久留米から離れたくない理由のひとつかも知れません。今後はこの故郷に、何か恩返しができればと思っています。

 

PROFILE

 

香月 均史 かつき ひとし

株式会社大砲 代表取締役社長

昭和33年久留米市生まれ。久留米・ラーメンルネッサンス委員会アドバイザー。久留米ラーメン会相談役。TV番組等で、久留米が豚骨ラーメン発祥地であることを全国に周知させる。また”呼び戻しスープ”の発案者であり、大型フードイベントの元祖といわれる、ラーメンをテーマにした町おこし「ラーメンフェスタ」の仕掛け人でもある。著書に映画「ラーメン侍」の原作となった「久留米・大砲ラーメン親子二代熱風録」(書肆侃侃房)がある。平成26年には「ミシュランガイド福岡・佐賀特別版」に大砲ラーメン4店舗が掲載され、うち2店舗はビブグルマンに選出されるという栄誉を得た。

http://www.taiho.net

 

笠 勝 かさ まさる

有限会社ハンバーグオニオン 代表取締役社長

昭和30年久留米市生まれ。昭和49年高校卒業と同時に、兄が経営する洋食店「コックどーる」見習いとして修行開始。昭和63年4月「洋食屋オニオン」を独立創業。平成7年8月店名を「ハンバーグオニオン」に変更し津福店をオープン。平成11年1月(有)ハンバーグオニオンへ法人化。黒毛和牛と国産豚の合びき、玉ねぎに拘ったハンバーグと、ドミグラスソースは多くのファンに愛され、現在までに福岡県内に5店舗(合川本店、薬院店、太宰府店、上津店、津福店)、佐賀県内に2店舗(鳥栖店、大和店)展開している。

【 ハンバーグオニオン合川本店 】

福岡県久留米市新合川1-4-45

11:00~24:00 (LO23:30)tel0942-44-8887

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